モカの香りにつつまれて 1 [音楽が奏でる情景(小説編)]
始めたばかりの仕事で神経を使うせいか、金曜日の終業時間になると、どっと疲れが出る。わたしは、重い身体を引きずるようにして、やっとのことで家までたどりついた。
鍵をあけて部屋に入っても、誰もいない。真っ暗の部屋は、妙に冷たかった。
メッセージが残されていることを知らせる留守番電話のシグナルの点滅だけが、暗い部屋の中に浮かんでいた。
ほんの一月前までは、わたしは、ごくありふれたどこにでもいる主婦だった。そのことに別に何の不満もなかったし、夫にも十分尽くしていたと思う。夫も、そのことはちゃんと理解していてくれたはずだ。
でも、きっとわたしには、何かが足りなかったのだろう。わたしが、平々凡々な主婦に満足して呑気に過ごしている間に、夫は愛人を作った。
それだけなら、そして、わたしのもとに帰って来てくれたなら、わたしはたぶん夫を許しただろう。でも、夫は帰って来てはくれなかった。
夫から突然離婚を切り出されたときには、頭の中が真っ白になって、何も考えられなかった。
「好きな人ができた。」という夫の言葉も、どこか上の空で聞いていたような気がする。
気持ちが落ち着いてくると、今までの結婚生活がすべて色褪せて見えた。「絶対に離婚はしない!」と頑張る気にはなれなかった。もう愛されていないのなら、結婚生活を続けても仕方ないと思った。離婚となった場合に一番考えなければいけない子供も、わたしたちにはいなかった。
わたしは、夫に言われるままに、離婚届に印を押していた。
真っ暗な部屋の中で、わたしはしばらく、ドアの前でぼんやりしていた。明かりをつける気にはなれなかった。暗く冷たい部屋、そこでしばらく寂しさを噛み締めるのが、最近のわたしの習慣になっていた。いつからこんなに自虐的になったのだろう。
暗闇の中で、わたしは、のろのろと電話機に向かう。この部屋の電話番号を知っている人はそれほど多くない。留守電にメッセージを入れたのも、母か絵美だろう。絵美は、短大時代からのわたしの親友だった。
留守番電話が再生したのは、発信音と記録時刻を知らせるメッセージだけだった。少し気味悪い。この部屋の電話番号を知っている人間で、無言のメッセージを入れる人間がいるだろうか?
そのままどっとソファの上に腰を下ろしながら、わたしは、この部屋の電話番号を教えた知り合いの顔を、一人一人思い浮かべてみる。やはり、無言のまま切りそうな人間は思い当たらない。
とりあえず、わたしは、絵美に電話してみることにした。というより、絵美と電話で話すことは、ほとんど毎日の日課だった。時には朝方までの長電話に、絵美はいやな顔一つせず、つきあってくれた。絵美がいなかったら、この身を裂かれるような孤独の中で、わたしの精神は崩れ去っていたかもしれない。
わたしは、もう一度電話機に向かおうと、重い腰をあげた。
鍵をあけて部屋に入っても、誰もいない。真っ暗の部屋は、妙に冷たかった。
メッセージが残されていることを知らせる留守番電話のシグナルの点滅だけが、暗い部屋の中に浮かんでいた。
ほんの一月前までは、わたしは、ごくありふれたどこにでもいる主婦だった。そのことに別に何の不満もなかったし、夫にも十分尽くしていたと思う。夫も、そのことはちゃんと理解していてくれたはずだ。
でも、きっとわたしには、何かが足りなかったのだろう。わたしが、平々凡々な主婦に満足して呑気に過ごしている間に、夫は愛人を作った。
それだけなら、そして、わたしのもとに帰って来てくれたなら、わたしはたぶん夫を許しただろう。でも、夫は帰って来てはくれなかった。
夫から突然離婚を切り出されたときには、頭の中が真っ白になって、何も考えられなかった。
「好きな人ができた。」という夫の言葉も、どこか上の空で聞いていたような気がする。
気持ちが落ち着いてくると、今までの結婚生活がすべて色褪せて見えた。「絶対に離婚はしない!」と頑張る気にはなれなかった。もう愛されていないのなら、結婚生活を続けても仕方ないと思った。離婚となった場合に一番考えなければいけない子供も、わたしたちにはいなかった。
わたしは、夫に言われるままに、離婚届に印を押していた。
真っ暗な部屋の中で、わたしはしばらく、ドアの前でぼんやりしていた。明かりをつける気にはなれなかった。暗く冷たい部屋、そこでしばらく寂しさを噛み締めるのが、最近のわたしの習慣になっていた。いつからこんなに自虐的になったのだろう。
暗闇の中で、わたしは、のろのろと電話機に向かう。この部屋の電話番号を知っている人はそれほど多くない。留守電にメッセージを入れたのも、母か絵美だろう。絵美は、短大時代からのわたしの親友だった。
留守番電話が再生したのは、発信音と記録時刻を知らせるメッセージだけだった。少し気味悪い。この部屋の電話番号を知っている人間で、無言のメッセージを入れる人間がいるだろうか?
そのままどっとソファの上に腰を下ろしながら、わたしは、この部屋の電話番号を教えた知り合いの顔を、一人一人思い浮かべてみる。やはり、無言のまま切りそうな人間は思い当たらない。
とりあえず、わたしは、絵美に電話してみることにした。というより、絵美と電話で話すことは、ほとんど毎日の日課だった。時には朝方までの長電話に、絵美はいやな顔一つせず、つきあってくれた。絵美がいなかったら、この身を裂かれるような孤独の中で、わたしの精神は崩れ去っていたかもしれない。
わたしは、もう一度電話機に向かおうと、重い腰をあげた。