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モカの香りにつつまれて 6 [音楽が奏でる情景(小説編)]

 他のバンド仲間からも、絵美からさえも、考え直すように何度も言われた。みんなが言うように、確かに、プロになるチャンスなんて、そうそうめぐって来るものではない。大きなチャンスをみすみす逃すようなものかもしれない。でも、プロになることが、そのときのわたしには、魅力的なものだとはどうしても思えなかった。

 どこにでもある平凡な家庭。定時に出勤し、定時に帰って来る夫。わたしは穏やかな時間の中で、家庭を守り、夫を待つ。子供は、3人くらい欲しい。子供の笑い声が絶えない家庭。それがわたしの夢だった。つまらないと言われようが、それがわたしの夢だったのだ。

 そして、その夢の中の夫は、確かにそのときは、健志だった。プロへの夢をあきらめて、もう一度わたしのところに健志がやって来てくれることを、わたしは、ずっと待っていた。けれど、健志から連絡がくることは二度となかった。


 しばらくは絵美経由で入ってきていた健志の情報も、絵美が彼と別れて、途絶えた。短大を卒業してしばらく経った頃のことだ。

 それまでに耳に入っていたのは、わたしがやめたせいで、結局、CDデビューの話が流れてしまったこと、それでも夢を捨て切れなかった健志達は、他の女性ボーカルをスカウトして、また活動をはじめたこと、バンドのメンバー全員が、試験を一つボイコットして、わざと留年になったこと、そのくらいだ。


 短大を卒業して3年ほどした頃、わたしは、会社で知り合った男性と結婚した。わたしの夢を叶えてくれる人だと信じて・・・・・


*     *     *     *     *


 「この前、偶然、絵美に会ってさ。江里子のこと聞いたんだ。いろいろ。」

 ほとんど毎日電話で話しているのに、絵美は、そんなこと一言も言わなかった。わたしは、どう答えていいのかわからず、黙り込む。

 「電話番号も絵美から聞いた。絵美には、驚かしてやりたいから江里子には内緒にしといてくれって頼んだんだけどさ。」

 それでも、こっそり教えてくれるのが親友ってものよと、わたしは絵美の顔を思い浮かべる。

 「いきなり電話がかかってきた方が、刺激的でいいでしょ?」そう言いながら、いたずらっぽく笑う絵美の顔が浮かんできて、わたしはちょっと苦笑した。考えてみれば、黙っていたのは、いかにも絵美らしい。

 「俺達、今もバンドやってるんだぜ。」

 黙ったままのわたしに健志が続けた。

 「今でも?」

 「まあ、プロを目指すってんじゃなくて、趣味で・・・だけどね。」

 電話の向こうの健志はちょっと苦笑しているようだった。

 「俺達み~んな、今は平凡なサラリーマン。週末にスタジオに集まるのが唯一の楽しみ。」

 自嘲気味にそう言ってはいたが、それはそれで健志達も満足しているように、わたしには聴こえた。

 何となく沈黙が流れる。

 わたしは、わたしの知らない健志の時間のことを考えていた。

 「また、一緒に歌わないか?」

 突然、健志が言った。

 「明日の夜も集まるんだ。江里子も来いよ。」

 涙が出て来た。

 この一月、身を引き裂かれるような孤独の中でも一度も泣いたことはなかったのに。

 ぼろぼろと涙が頬を伝っていくのを感じながら、

 「うん。」

 ほとんど消え入りそうな声で、わたしは答えた。


 電話を切ったあと、わたしはコーヒーをいれた。コーヒーメーカーから流れ出したモカの香りが部屋中を包み込む。

 わたしはモカの香りが好きだった。どこか気品のある香り。モカの香りに包まれると不思議と心が落ち着いた。

 いつの頃からこんな習慣が身についたのかと考えていたら、それが健志の影響だったことを、突然思い出した。

 窓越しに空を見上げたら、満天の星が、ふっと滲んだ。

 もう一度、涙がこぼれた。


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