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モカの香りにつつまれて 5 [音楽が奏でる情景(小説編)]

 あのライブの感覚は、きっと経験したものにしかわからないだろう。言葉では、絶対に表現できない感覚だと思う。

 わたしは初めてのライブ以来、バンド活動にのめり込んでいった。

 最初は月に一度だったライブのペースが、月に二度になり、毎週になった。いつも活動していたライブハウスで、いつの間にか、わたしたちのバンドは、客を集められるバンドになっていたのだった。

 わたしと健志は、実生活では相変わらずただのバンド仲間のままだったが、ステージの上では、熱烈な恋人同士だった。あの頃のわたしは、それで十分に満足だった。


 バンド活動にのめり込んではいたけれど、その一方で、わたしはごく平凡な安定志向の女の子でもあった。2年生になれば、短大ではみんな就職活動をはじめる。わたしも、バンド活動の傍らでリクルートスーツを着て、会社訪問を始めた。

 健志はわたしより二つ年上だったから、当然、健志にとっても就職活動を始めなければいけない時期だったのだけれど、まるでそんな素振りは見せなかった。相変わらずバイトとバンドに明け暮れる毎日を過ごしていた。

 ステージの上だけの恋人同士という関係に、わたしが満足できなくなってきたのは、その頃からだったと思う。

 実生活の上でも恋人同士だったなら、わたしはきっと、しつこく健志に就職活動をするように言っていただろう。確かに健志の成績は悲惨なものだったけれど、それでも卒業に必要な単位は何とか揃えられそうだったし、「一橋」という名前だけでも、一応名の通った会社に就職できるだろうと、わたしは思っていた。

 ところが、健志ときたら、夏休みに入る前から、すでに留年を決めているような素振りだった。口にこそ出さなかったが、プロを目指していたのだと思う。


 実際、あのときの健志の喜びようは普通じゃなかった。

 その話は、突然降って湧いたように舞い込んできた。そろそろ夏休みが終わろうかという頃だ。わたしたちのバンドにCDデビューの話がかかったのだ。

 「プロになれるんだぜ!」

 子供のように目を輝かせながら、いきなりわたしの部屋を訪ねて来た健志が言った。わたしに異存があることなど、考えてもいない様子だった。

 「わたしは、プロになんかなりたくないわ。」

 健志は、わたしの言っていることがまるで理解できないように、一瞬きょとんとした顔をした。

 「メジャーデビューなんだぜ!」

 健志はそう言いなおした。

 「プロになってどうするの?CD出したって売れるとは限らないし、最初ちょっと売れたって、ほとんどのバンドは、そのうちにどこかに消えちゃうじゃない。そんな先の見えない世界に入るのは、いやよ。」

 「プロになるのは、俺の夢なんだよ!その夢が実現するかもしれないんだぜ!」

 「でも、わたしの夢じゃないわ!わたしは、ありきたりで平凡でも穏やかで安定した生活がしたいの!就職だって決まりそうなんだから。」

 わたしにはそう言うのが精一杯だった。健志の夢に口を挟む資格は、わたしにはないと思ったからだ。「健志の夢は、わたしの夢じゃない。わたしはプロにはならない。」それを押し通すことしかできなかった。

 「江里子がいなかったら、俺達のバンド成り立たね~よ。」

 そういう健志は、かなり情けない顔をしていた。

 「バンドなんて趣味でいいじゃない。趣味で続けるなら、わたしもずっと参加する。」

 バンドにすべてを賭けていた健志にとって、たぶん、わたしの言葉は許せないものだったのだろう。あのとき、健志は、ぞっとするほど恐い顔をわたしに見せた。

 「わかったよ!」

 捨て台詞のようにそう言って踵を返すと、わたしの部屋を後にした。


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