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モカの香りにつつまれて 3 [音楽が奏でる情景(小説編)]

 わたしたちは、ほとんど毎日、バンドの練習のために集まった。夕方5時くらいに集まって、そのまま9時、10時まで、練習は続いた。

 すべてが健志のオリジナルだったから、アレンジも白紙の状態からはじまる。だから、練習といっても、最初は、ああでもないこうでもないと言い合いながら、一応納得のいくアレンジを作り上げるだけで、あっという間に時間は過ぎていった。

 練習が終わった後も、場所を居酒屋やラーメン屋や定食屋に移して、走り書きのような譜面を前に、アレンジの細かな修正なんかをしたりした。時には、健志の部屋で、夜中までということもあった。

 眠気をさますために、健志はよくコーヒーをいれてくれた。「老後は喫茶店でも開くかな。」というほど、健志はコーヒー好きだった。

 そんな風にして、ライブ用の5曲が一応の形を整えるまでに、3ヶ月ほどかかった。

 アレンジを作り上げる過程で、すでに、かなり、バンド演奏の練習もしていたとはいえ、アレンジが出来上がった途端に、1ヶ月後にライブの予定を健志が組んでしまったのには驚いた。わたし自身は、まだ、大勢の観客の前で歌えるほど、健志の歌を歌いこなせているとは思えなかったからだ。

 「江里子は一度ライブを経験した方が、いい歌が歌えると思ったから。」

 それが健志の理由だった。

 ライブまでの一ヶ月は、ほんとうにあっという間に過ぎた。多少ましになってはいたが、相変わらずわたしの歌は、健志におんぶに抱っこの状態だった。


 ライブの前日、すでに緊張の塊と化していたわたしを、珍しく、健志は家まで送ってくれた。

 「やっぱり、わたし、だめよ・・・」

 そう言いながら健志を見上げたわたしの目は、たぶん、生まれたばかりの小猫のように怯えていたと思う。

 「心配しなくても大丈夫だよ。」

 そう言いながら、健志はいつものように優しく微笑んだ。

 「ライブの間だけ、俺に恋しろよ。俺も江里子に恋するからさ。」

 健志が、わたしの気持ちに気づいていなかったのか、それとも気づいていながら気づかないふりをしていたのかは、わたしにはわからない。そのときにはすでに、わたしは健志に恋をしていた。ただ、その気持ちを、必死で健志に気づかれまいとしていたことも事実だった。

 「ライブの間は、恋人同士になったつもりで歌えばいいの?」

 わたしの言葉に、健志はやっぱりあの優しい微笑みで答えた。


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