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モカの香りにつつまれて 2 [音楽が奏でる情景(小説編)]

 電話のベルがなったのは、それとほぼ同時だった。

 受話器をとる。

 「はい。」

 「江里子?俺。わかるか?」

 確かに、わたしは江里子だけれど、「俺」でわかる男の知り合いは、別れた夫以外に思い浮かばない。しかし、受話器から聞こえて来た声は、別れた夫のものではなかった。

 わたしは、思わず黙り込む。どう答えていいかわからなかった。

 「久しぶりだからなあ。俺の声、忘れちまったか・・・」

 受話器の向こうの声は、それほど失望したようでもない。「まあ、当然だろうな。」というような調子だ。でも、確かに、その声には聞き覚えがある。

 「健志?」

 わたしは、懐かしい名前を口にしてみた。ほとんど確信しながら。そして、狂おしいほどの切ない想い出が、隙間だらけの心に押し寄せて来るのを感じながら。


*     *     *     *     *


 健志とは、短大1年の夏、絵美を通じて知り合った。当時絵美のつきあっていた彼が、一橋大学の軽音楽部に所属していて、健志も同じサークルに所属していたのだ。

 その頃健志は、コピーばかりやっているバンドに飽き飽きしていて、オリジナルをやれるバンドを作りたいとメンバーを探していた。健志がやりたいと思っていたのは、バービーボーイズのような男女のツインボーカルのバンドだった。

 健志のパートはギターとボーカル。ドラム、ベース、キーボードともう1人のギターは軽音楽部の仲間の中から見つかった。けれど、肝心の女性ボーカルが見つからず、絵美の彼を通じて、絵美の短大仲間に声をかけてきたのだった。絵美は、真っ先にわたしに声をかけてきた。絵美とは、よくカラオケに出かけていたが、わたしの歌をとても気に入ってくれていた。

 カラオケで歌うならともかく、バンドのボーカルとなると、わたしは少し尻込みした。カラオケなら、観客は、ごく少数の知り合いしかいない。バンドとなると、ライブハウスでライブもやることになる。確かに歌うことは好きだったけれど、もともと気の小さい方だったわたしは、大勢の観客の前で歌うことなど、考えたこともなかった。

 尻込みしているわたしを、絵美が無理矢理、健志のところに引っ張っていった。


 軽音楽部のあまりきれいとは言えない部室の中で、はじめてわたしを見たときに健志が言った言葉を、わたしは、今でもはっきり覚えている。

 「ルックスは合格!」

 健志はそう言って微笑んだ。

 その瞬間にわたしの心に起こったことなんて、全く気づかないように、

 「じゃあ、ちょっと歌ってもらおうかな?」

 健志はそう続けた。

 わたしは、内心かなりドキドキしながら、言われるままに、バービーボーイズの曲を二曲ばかり、バンドの伴奏で歌った。もちろん、健志と一緒に。

 ドキドキしてかなり緊張していたのに、歌い出すと、自分でも信じられないくらいよく声がでた。はじめて一緒に歌ったのに、まったくそんな気がしないくらいに息が合って、ほんとうに気持ちよく歌えた。

 「サイッコー!」

 歌い終わった後、健志は小躍りするようにそう叫んで、わたしに微笑んだ。


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